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僕が戸籍の名前を変更出来る事を知ったのは、平成8年9月19日。
日付まで今も覚えてる。その割になんで知ったのかは覚えていない。
無知だった僕は通称名も無いのに何に変えるつもりだったのか、市役所に走った。
とにかく変えられるという事実が嬉しかったらしい。
しかし当然、市役所では変えれる訳も無く、家庭裁判所で申し立てないといけない事、その際に戸籍謄本が必要な事を教えられ、謄本を買って家に帰った。
そして両親に「名前を変えたい」と伝えたが、「何考えてんだ、バカ」と一蹴。
でもその戸籍謄本だけは捨てられなかった。諦め切れなかった。
そして平成13年12月。
僕はすべての生活において、男性として生きる事を選び、同時に改名に対しても思いを新たにした。
まず最初にしたのはネットでの情報収集。
精神保健センターに相談してみるのも手、と書いてあったので、問い合わせた。
結局「性同一性障害は知らない」の一点張りで帰されたが、「相談に来た当事者に対して今後も同じ対応をするんですか?」と資料だけは押し付けて来た。
(今はREALIVEへ連絡が取れるようにしてくれてるみたいです)
そして某自助グループに連絡をしたら、色々なアドバイスや改名の資料等を頂いた。
その資料を見て驚いた事は「永年使用を理由とした申立の場合は5年程度の使用証拠が無いといけない」と書いてあった事。(実際は特に目安となる期間は無いそうです)
この頃の僕はすでに家や仕事以外では通称名を使い始めて4年程度経っていたが、「永年使用」なんて言葉も知らず、使用証拠など保管していなかった。
僕はかなりの勢いで焦り部屋中をかき回して探したが、数点の物しか見つからず思い切りヘコんだ。
とにかくこれからでも使用証拠を集めようと考え、郵便物はすべて保管し、身分証明や登録が必要なカード類(図書館等)は事情を話して変更(性別も一緒に)してもらい、近所の(内科)開業医院にも事情を説明して、通称名のカルテと診察券を作ってもらった。
郵便物の収集はネットオークションを利用して、広範囲に集めた。
小銭も稼げて一石二鳥。セコイ。
そんな生活の中、ある日の事。
不注意で車をぶつけてしまった時、僕は咄嗟に通称名を告げてしまった。戸籍名などすでに書類上での記号に過ぎず、僕の名前としては認識出来ていなかった為だ。
通称名を告げた後、「ヤベェ、免許証見せろって言われたらどうすんだ!?」と思ったので、すぐに住所と携帯番号を渡したら免許証提示は求められず、後日しっかりと某会社から通称名宛で修理費の請求書が送られてきた。
平成14年2月。
僕は新大病院にとある検査を受けに行ったのだが、その時に紹介状を書いてもらい同病院の精神科へ行った。
行って最初に「治療は受け付けられない」と言われ、目的がGIDの治療だったので落ち込んだが、改名の意思を告げて「検査か何かして僕の戸籍性・名への精神的苦痛を証明出来ないでしょうか?」と相談した。
(今は第一段階のみなら受け付けてくれるみたいです)
すると「検査をして問題が無いようなら意見書を書きましょう」と引き受けて下さった。
検査は3月13日。2時間半くらい掛かった。費用は3〜5千円程度だったかと(曖昧)
結果が出たのが4月4日。
「"病的サイン"は見られなかったが、意見書は書けない」と断られた。
あまりにもショックだったので記憶が曖昧だが、「罪悪感が迷いに繋がっている」だのなんだの言われた。その後も色々言われていたが、よく覚えていない。
最後に「精神科医かカウンセラーに相談して、少しでも心の傷を癒して、また検査を受けなさい」と言われ帰された。
帰りの駐車場で呆然とした。
僕は男性として生きる決意をしてすぐ、両親に対してカミングアウトしていた。
結果は散々なもの。予想はしていたし、当然だとも思った。申し訳なくて仕方なかった。
日が経つにつれ関係は悪化し、母親に泣きながら罵倒され続けるようになっていた。
検査はその頃だった。
それからの数ヶ月、僕は何もする気が起きなかった。
この数ヶ月間の事はさっぱり思い出せない。
だがある日…父が改名を許してくれた。
「お前が苦しむ事はしたくない」と言ってくれた。
兄弟も理解を示してくれ、母は「きっと一生許せないと思うけど…」と言いながら反対はしなくなった。
「ありがとう」の言葉すら出なかった。とにかく嬉しかった。
そして僕はまた改名への準備を再開した。
季節はもう秋になっていた。
男性として生きる事を決意してからもうすぐ1年。
家族、兄弟、家、親戚、近所…関わる人達へカミングアウトし、使用証拠収集に励み、自助グループから頂いた改名マニュアルも隅から隅まで幾度となく読んだ。
使用証拠の少なさを何とか埋めようと、改名に対する自分の気持ちを伝える為に「理由補充書」の作成をした。
最初はB5サイズだったが、書いていく内にA4サイズへ…気付けば14枚も書いていた。
9項目に分け、幼い頃の事や、性別違和によってどのような苦痛を抱いてきたか。
性自認のキッカケ、仕事、友人、彼女、家族の事。
改名に対しての不安、思っている事、そしてこれからの事。
とにかく思いつくままに書き殴った。
どれだけ書いても不安は消えなかった。
こんな事をしても無意味かもしれない…そんな思いもあった。
だからこそ必死に、何度も見直しては書き続けた。書き上げた後も、毎日読み返した。
元が小心者だからだろう。こんな事でもしてないと落ち着かなかった。
この時の僕は、周りから見て危うかったらしい。
彼女が気休めにでもと、評判らしい完全予約制の占い師の所まで連れ出す始末。
心配掛けてるなぁと反省しつつも、せっかく金払って来たんだから…と、半信半疑で相談してみた。
「実は、俺の事をカケラ程も知らない人に今後の人生を左右する程の大事な事に対する許可・却下の判断を委ねなくてはいけないんです」
僕がそう言うと「必ず望む結果を手に出来る」と占い師のおっちゃんは言った。
たかが占いだが、嬉しかった。単純な脳で良かった。
ついでに吉日を教えてもらい、その中で一番近い日を申立日に決めた。
普段占いなんてちっとも興味が無いくせに、藁にも縋りたい気持ちだった。
申立日は11月6日。約1週間後だった。
当日は雨だった。
使用証拠と理由補充書、両親の同意書。GID関連の資料等を手に家裁へ向かう。
途中で切手と収入印紙、戸籍謄本を買いに行った。
午後1時少し前に新潟家庭裁判所に到着。
空はいつの間にか晴れていた。
入り口すぐの窓口で用件を告げて申立用紙を貰う。
職員の方が記入方法を説明してくれそうになるのを「知ってます」と断り、記入。
ふと、申立用紙の戸籍上の名を記入する欄に目が止まった。
…そりゃそうだ…書かなきゃだったんだ…
久し振りに書く戸籍上の名は、ガクガク震える手で書かれ、崩れまくった字になった。
その部分以外はまともなので、どう見てもワザとやっている風にしか見えなかった。
申し立ての実情は
【通称名として永年使用した(期間5年)】
【性別違和による女性名への精神的苦痛】
【女性名での生活の困難】
と記入した。
性同一性障害としなかったのは、診断書が無いから遠慮した為。
備考欄には「呼び出し状郵送の際は、可能であればで結構ですが、通称名宛で頂けると助かります」と書いた。
記入後、間違いが無いか見直して提出。
提出するつもりで持って来たほとんどは「調査の時で結構です」と受け取られず、使用証拠の中から数点選んでコピーを取られ、理由補充書だけを提出して帰って来た。
それから毎日、郵便を待った。
1週間が過ぎ…2週間が過ぎ…段々と不安が募る。
そしてとうとう3週間目に入った11月28日。
家裁からの連絡は意外にも電話だった。
電話に出てみると、僕の申立を担当して下さる調査官だと名乗られた。
調査の日時を決める話し合いで、「すぐにでも」とお願いし1週間後の12月4日に決定。
「受付では両親の同意書は必要無いと言われたんですが…」と聞いた所、「ご両親だけでなくご家族全員からの同意書を頂けると尚いいです」と教えてもらった。
そして「ご事情を知っている方で家庭裁判所からご連絡してもいい方々の連絡先リストを作ってもらえませんか?」と言われた。
その後、ここぞとばかりに
「結果まではどのくらい時間がかかるんですか?」
「使用証拠に対して何か調査があるんですか?事情を知らない人もいるんですけど」
etc...etc...etc...
調査の日に聞けばいい事を、僕は「あ、もう1つ聞いていいですか?」としつこく聞いた。
この3週間で募った不安が爆発していた。
電話を切った後、連絡出来る人のリスト作りに頭を悩ませた。
事情を知っている人はいる。しかし、家裁からの連絡となると平日だと考えられ、頼める人達は仕事中だ。
そこで指示に沿わなくなってしまうが、代わりとなる処置として僕の改名に対して「意見書」を書いてもらえるようにお願いした。
兄弟にも同意書を書いてもらった。
弟は「なんか契約みたいで嫌だ」と言っていたが、「恐がる事は何も無いさ、ブラザー」と宥めて同意文の横に「兄の為に宜しくお願いします」と無理矢理書かせた。
同意書は家族5人分。それぞれの自筆でもらった。捺印も。
そして12月4日。
「成人男性としての礼儀」と勝手な思い込みでスーツを着て家裁へと向かった。
心配してくれた友人も同行してくれた。
電話で告げられた階へ行くと、待合室に通され待つ事数分。
調査官が迎えに来られて、僕だけ「家事調査室」へと案内された。狭い部屋だった。
調査は4時間程度続いた。
質問の回答は理由補充書に書いてある事だったので、割とスムーズに答えられた。
名前に対しての嫌悪感や苦痛の話をした時、調査官から「だから申立書の戸籍名の部分だけ字が乱れてらしたんですね」と言われた。
家裁からの連絡が電話だった理由は、僕に対する配慮だったのだと実感。
もしかしたら演出かもしれないそんな事を気に掛けてくれたのだと、嬉しかった。
過去や現在の事だけでなく、治療に対してのこれからの考えも聞かれ、素直に答えた。
意志の確認みたいなものだろう。
調査官は僕の言葉をノートに書きとめながら真剣に話を聞いてくれた。
質問の後は使用証拠の説明。
持参した使用証拠を一つ一つ、どんな関係の人からもらったのか等を説明していく。
車をぶつけてしまって郵送されてきた請求書の封筒についても説明した。
あの事故はイタイ出費だったが、とっさに通称名を名乗ってしまった事等を話して、僕にとって通称名が自身の名として染み付いてる事を説明出来た。災い転じて福となる。
友人・知人からの物より、こういうどこかの会社から等の手紙が重視されたようだ。
図書館のカードや診察券等も証拠として提出したが、本来通称名で登録される事のない物に対して、事情を説明し説得してまで通称名に変えてもらったという事は、改名に対する意志とも受け取れるようで大切なようだ。
使用証拠の説明の後、「指示された連絡出来る人のリストなんですが」と事情を話し、代わりに貰った意見書を提出した。
ダメなら連絡先をお知らせします、と言ったが「これで結構ですよ」と言ってもらえた。
「ではコピーを取らせて頂きます。少々お待ち下さい」と調査官が部屋を出た。
煙草が吸いたかった。
数分後。
戻ってきた調査官に「今考えてきたんですが…写真を撮りませんか?」と言われた。
「私から見て、Sさんは男性にしか見えません。写真を撮って裁判官にお見せして、Sさんが現在のお名前では生活が困難である事を証明しようと思うんです」との事。
写真は大嫌いだったが、断る訳も無く。ポラロイドカメラで2枚撮った。
ミニ撮影会はド緊張。酷い顔だったろう。写真は見たくなかった。
(あくまで僕の場合であって、改名に望みの性らしい外見である必要はありません)
再び席に座り「一応用意したんですけど」とGID関連の資料や新聞のコピーを出した。
「こちらにもありますが、せっかく準備して下さったので頂きます」と受け取ってくれた。
話す事は話したし、渡す物も渡したし…
そろそろ調査は終わりだなと思った僕は、素直に気になっている不安を話した。
「知人には無理をしないで取り下げも考えておけと言われましたが…僕は取り下げなくてはいけない状況でしょうか?」と。
調査官は「私は結果を出せる立場ではありませんが、取り下げる必要はありません。希望を持って下さい」と言ってくれた。
少し落ち着いた…。
その後、新たな指示を受けた。
「これは裁判官からの指示なのですが、来年の年賀状を集めて下さい」との事。
来年とは、約1ヶ月後の事である。
「年賀状…ですか…」と動揺する心の中で、「年賀状とか面倒くせぇからやめよーぜ」と送り合いを拒否した数年前の事を思い出していた。
筆マメじゃない僕には結構キツイ指示だった。
出来る限り集めてみます、と答えて調査は終了。
その後、同行した友人も数分だけ調査官と話した。
僕「何聞かれた?」
友「友達の間での扱い(?)はどうなのか、って」
僕「へぇ…」
普段あまり喋らない故の疲労と気疲れで、帰りはグッタリしていた。
平成15年1月17日。
金曜日の夕方。再び調査官からの電話。
「提出は郵送でも構いませんが」と言われたが、月曜日に持って行きますと答えた。
月曜の20日。指定された時間に年賀状を持って家裁へ。
この日はラフ過ぎない格好で行った。
また家事調査室へ入り、年賀状の送り主との関係を説明。年賀状は40枚近くあった。
友人・知人・親戚だけじゃなく、親の知り合いや近所の人にもお願いしていた。
「少ないですか?」と聞くと「十分ですよ、これだけ広範囲に集めて下さったから」と答えてくれた。
またコピーを取られて返却される。
「最近どうされてますか?」といきなり世間話的な事を聞かれた。
僕の生活状態を気遣ってもらったみたいで嬉しかった。
そして年賀状を纏め終わった調査官は「これならおそらく大丈夫です」と言ってくれた。
不安はほとんど消えていた。自分も出来る限りの事はした。
「結果は1ヶ月程掛かると思います。それと…結果は郵送ですが、すみませんが戸籍名宛になります」と謝ってまでくれた。
この日、昼休みの時間を僕に割いてくれた調査官。
調査の日も4時間も僕の話を真剣に聞いてくれた。最後まで僕を気遣ってくれた。
仕事だからだろうけど、本当にありがとうございました。
1ヶ月と思いきや、4日後の24日には結果が届いた。
封筒はかなり薄い。
見ると宛名は通称名だった。
「あれ?」
封筒を開けると「許可」と書いた紙が。
そして小さな付箋紙に「●●さんのお名前で届くようにしました」と調査官からの一言が書かれていた。
「許可」の結果も嬉しかったが、そのメモもとても嬉しかった。
僕はようやく念願だった自分の名前を手に入れた。
長年憎み続けた名前。もう自分を表す記号ではなくなった。
これで「名前=強制カミングアウト」ではなくなった。
名前が変わっても、変わらないものは沢山ある。
それでも、初めて自分の為に頑張れた。やっと踏み出せた一歩。
申し立てから結果まで、約2ヵ月半。
沢山の人に協力してもらった。応援してもらった。助けてもらった。
改名の喜びも、皆への感謝も、ずっと忘れない。
振り返ってみて…
最初から最後まで、僕は言葉でも態度でも「戸籍名への嫌悪感・精神的苦痛」を表していた。態度が一貫していたのは、大切だったと思う。
不安も大きかったけど、それを埋める為の努力、その意志があれば、少なくとも気持ちは伝わるんだと思った。
余談…
結果の封筒は金曜日の夕方に受け取ったので、市役所へは月曜日に行った。
保険証を新しくして、住民票を貰って次の日に免許センターへ行った。
窓口で名前変更の事を告げ、住民票を提出。座って待とうと背を向けたその瞬間。
「〇〇さん!」と旧名である女性名を叫ばれる。本当に大声で。
周りの視線が集まり、一気に挙動不審。
実はこの時僕は、免許証は髭を生やして写ろうとしていた為、顎鬚を生やしていた。
(ちなみに、僕はホルモン治療は受けてないけどバランスの関係で髭が生えるのです)
マフラーを取る前で良かった…と、とりあえずの安堵をしながら、心の中は動揺。
窓口へ行くと「〇〇さんのお名前が●●さんに変更されたんですね?」と確認された。
「はい、そうです」と返事をして窓口を離れるまで、旧名を呼ばれる事、計4回。
改名の理由を知らないとは言え、さすがに腹が立った。
しかも、数分後に渡された免許証は新しい名前を裏書されただけのものだった。
ちょ、ちょっと待ってくれ!意味ねぇよ!!
僕「あの…新しい免許証にしたいんです」
職員「住所が変わった場合は新しくなりますが、名前の場合は無理です」
僕「お金払ってもですか?」
職員「無理です」
そんな言葉は無視して再発行の窓口に並べばよかったのだが、帰らなくてはいけない時間が迫っていたのでとりあえずその日は帰った。
最初から再発行にすれば、難なく新しい免許証にしてくれます。
長々と乱文失礼致しました。
僕の体験談は古い情報なので、お役に立てるかどうかは判りませんが…これから名の変更申し立てをする方々が、自分の望む名前を手に出来るよう、祈っています。
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